岡山県久米郡美咲町
三宮八幡神社
さんのみや はちまんじんじゃ
美作古社12社
竹内流古武道開眼の地
美咲町 三宮八幡神社について
由 緒
本神社は、第73代堀川天皇の御世寛治4年に山城国男山八幡宮の御分霊を祀ったのが始まりで、垪和郷三之宮と称した。
美作古社12社の1社であり、西垪和、東垪和、西川と上口の一部が氏子として今も崇敬を続けている。
天正4年に毛利輝元将村上左エ門尉久成宇喜多兵と此地で戦い、その時に本社末社とも兵燹に罹り焼失したので同14年再建した。その後天保14年再建。棟札によりこれが現在の本殿として判別できる。後明治6年村社に列し八幡神社と改称する。
氏子内数所に神田があり、春秋2季に当祭を執行し酒饌を調進する神事が今尚継続している県下でも数少ない祭事である。
明治42年氏子内12社を当社に合祀する。大正4年神饌幣帛料供進神社に指定される。大正5年拝殿改築をし、現在の拝殿となり、平成2年には創祀900年式年大祭を執行した。
竹内流古武道と三宮(開眼の地)
戦国時代から岡山県で伝承されている竹内流。
武芸熱心な竹内久盛が修行の場として選んだのは、一ノ瀬城から北に3kmほど隔たった垪和郷 三ノ宮の境内であった。
1532年(天文元年)美作国一ノ瀬城主の竹内中務大輔源久盛によって創始された流派である。流祖は中世から戦国時代に垪和を拠点とした垪和氏の竹内久盛である。以降三代にわたって体系化され流儀の完成に至った。
1836年(天保7年)八代目の竹内久愛が45歳の若さで亡くなったが子の竹内久雄と竹内久種はまだ若く、流儀を究めるのが難しかった。この時、淡州で武術指南を行なっていた7代目竹内久孝から印可を授かった高弟の池内雅門太が竹内道場へと呼び戻された。池内雅門太は竹内家のために藩主から許しを得て、竹内久雄と竹内久種に指導を行った。
これにより、池内雅門太は竹内姓を授かって九代目竹内藤一郎久居を襲名した。その後、竹内久雄が十代目を継ぎ弟の竹内久種は流儀断統を防ぐために立てられた分家の当主となり竹内藤十郎を名乗った。この時に相伝家が生まれ当主は竹内藤十郎を襲名するようになった。
現在は、宗家である竹内藤一郎家と相伝家である竹内藤十郎家の伝承が残っており、岡山市北区建部町角石谷にある竹内家で伝承されている。現存している柔術流派の中では最も古い文献や記録が残っているため、日本柔術現存最古の流派と言われる事が多い。(Wiki)
基 本 情 報
神社名 八幡神社(ハチマンジンジャ)
通称名 三宮
旧社格 村社
鎮座地 〒709-3414 岡山県久米郡美咲町東垪和507-2
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電話番号
FAX番号
駐車場 有 20台
御祭神 品陀和氣命(ほむだわけのみこと)
古事記では品陀和氣命(ほむだわけのみこと)、別名は大鞆和気命(おおともわけのみこと)、日本書紀では誉田別命(ほむたわけのみこと/ほんだわけのみこと)・誉田天皇(ほむたすめらみこと/ほんだすめらみこと)、また父の仲哀天皇の死去により母の神功皇后の胎内にあった時から皇位に就く宿命にあったので胎中天皇(たいちゅうてんのう)とも称されます。鞆とは弓を射る時に左手首の内側につけて、矢を放ったあと弓の弦が腕などに当たるのを防ぐ道具※1で中世頃には用いられなくなりましたが、応神天皇は生まれながらの武神と言われていました。